石と誰かの物語19*「ターコイズの夜」

   熱い鍋が寒い夜には欠かせない。

 私のような働き盛りの母を持つ息子はぶつぶつと文句を言うが。

 

「また、鍋かあ」

 

「何よ、野菜も肉もたっぷりよ」

 

「豚だろう」

 

「豚のどこがいけないのよ」

 

「霜降りの牛肉というのを一度は食べたいなあ」

 

「霜降りの肉を腹に巻いた私が作ってるからおいしいわよ」

 

「ちっ」

 

 確かに私も霜降りの牛肉が食べたい。でも、このところ売り上げが悪くて全然給料が上がらない。ボーナスもテレビの伝える大手企業の額を聞くと、その何分の一だわ。まだ出るだけありがたいと思えと言われるほど。つまんない。

 夫は単身赴任で東北に行って二年。息子は中学三年生。クラブ活動の吹奏楽に夢中で来春に受験とは思えないほどトランペットを吹き鳴らす。ご近所に迷惑だからと二階の彼の部屋はいつも雨戸を閉めている。

 

「ねえ、今度の日曜日、親父は帰ってくる?」

 

「うん、多分」

 

「そうか、ならいいか」

 

「何がいいのよ」

 

「うん、新しい楽譜がほしいんだ」

 

「自分の小遣いで買いなさい」

 

「いや、あれは貯めておくの」

 

「どうして」

 

「新しいのを高校に入ったら買うから」

 

「もったいない。使いなさいよ、今のを」

 

「いや、高校はもっといいのを使いたいんだ」

 

「弘法筆を選ばず」

 

「選ぶよ」

 

「それより、その高校に入れるかどうか心配したら?」

 

「大丈夫。僕はそこそこはできるほうだから」

 

「底値よ」

 

「そんなことないよ、津田より上だもん」

 

「あら、津田君は優秀なお姉ちゃんがいるからしっかり教えてもらってるかもよ」

 

 津田君のお姉さんは美人で吹奏楽のマドンナと呼ばれていた。

 紅という名前がぴったり合う人だ。今は音大の付属校に進んでいる。

 

「ああ、そうだよ、あいつはいいなあ。美人で頭もいいお姉ちゃんがいて、しかも性格だってまあまあだよな。」

 

「ふーん、そうなんだ。紅さんのことは褒めるのね。他の人には厳しいのに」

 

「ちっ、変なこと言うなよ」

 

 と言いつつ、顔が妙に赤い。

 

「あ、ひょっとして紅ちゃんのこと」

 

「違うよ、これだからおばさんの会話は嫌なんだよ。食うぞ」

 

 息子は鍋の中の肉を嫌がっているとは思えないほど食いついていた。

 これほどおいしそうに食べてくれるなら言うことはない。せっせと鍋に野菜も入れていく。

 ふと、机の上のケータイが鳴る。

 

「誰から?」

 

「津田」

 

 言いながら、立ち上がり隣の部屋に行く。

 

「嘘だろ、いつ、どこで。今から行く。一人で行くなよ。俺もついていくから」

 

 真っ青になった息子の顔が引きつっている。

 

「どうしたの」

 

「紅が男に襲われて帰ってきたって」

 

「えっ、いつ、どこで、誰にされたのよ」

 

「知るかよ、今から行ってくる」

 

「待って、紅ちゃんにはご両親がいるでしょうから、あなたが行くと彼女がつらいわよ」

 

「違うんだ、津田が相手がわかるって、そこへ行くっていうから」

 

「ダメよ、子どもだけでそんなこと。警察に行くように言わないと」

 

「津田が泣いてる。俺行ってくる」

 

 制止するのも聞かず、息子は行ってしまった。

 津田君の家の番号を探さないと。前に息子が泊まりに行ったことがあった。電話番号を書き留めていたはずだ。震えて受話器を取る。

 津田さんの家はきっとみんなが大騒ぎしているだろうに。

 震える声で津田君のお母さんが電話に出た。津田君からの電話で息子が出ていったことなど話すと、お母さんは大声で旦那さんを呼んでいる。ご主人にまた話をするが、みんな気持ちがささくれ立っているから話がうまくできない。

 津田君はすでに家を出ているという。紅さんが電話に出てきた。

 

「おばさん、多分駅の待合室に行ってると思います。あの子たち、いつも寒いからあそこで待ち合わせしてるんです。ごめんなさい。私のせいで」

 

「何言ってるの、あなたが謝ることじゃないわ。すぐに警察に伝えて。私も駅に行きます」

 

 コートを手に外に出ると、雪まで降ってきた。

 駅まで五分程度なのに、やたら長く感じる。待合室に二人の姿はない。

 自転車置き場には自転車があるのに。

 

「そうだ、あの人に電話しないと」

 

 夫は帰っているだろうか。社宅には留守番電話が受ける。ケータイは圏外なのか通話できない。

 すると、西出口のコンビニ前に二人の姿。

 駆け寄ると、津田君の顔には大きなあざが。

 

「どうしたの。その顔」

 

「紅のことを前から追いかけてくる前野というのがいたんだ。そいつが待てって言ったら振り向きざまに殴られた」

 

「その人はどこ」

 

 津田君は静かに指さす。看板の後ろで男が倒れている。

 

「えーっ、どうしましょう。早く救急車を呼んで」

 

「僕が呼んだ」

 

 息子が言う。

 息子の手が腫れている。

 

「津田が殴られたから、殴ったんだ。そしたら倒れちゃった」

 

 すると、男はうめき声をあげながら起き上がった。

 

「あなた、大丈夫?」

 

「なんだよ、こいつ。誰なんだよ」

 

 息子を指さし怒鳴る男。

 

「津田の友達だ。加納信二」

 

 そこへ救急隊が来た。

 

「この人が殴られて倒れたんです」

 

「殴ったのは誰」

 

「僕です」

 

「救急車を呼んだのは誰」

 

「それも僕です」

 

「なんだよ、何やってるんだ、君たち」

 

 そこへ警察も来て駅はやじ馬でいっぱいになった。

 津田君一家も来て警察で事情を聴かれる羽目になった。

 前野という男は、前から紅さんのことが好きで、ストーカーしていたという。今日も紅さんを追いかけようと自転車置き場で待ち伏せし、逃げようとする紅さんの手をつかんだら思い切り大声を出されて、口を押さえようとしたところ紅さんが倒れて水たまりに落ちたという。人が近づいて男も逃げたが、彼女の姿に津田君はすべてを聞かずに走り出した。紅さんはショックは大きかったが、津田君はずぶ濡れの姉の姿にいたたまれず敵を取りに行ったという。

 もちろん前野は捕まって、二人の中学生は厳重に注意された。

 

 あれから十年。

 

 「お母さん、あの日にね、信二さんがあの男を殴ってくれたことがすごくうれしくて」

 

 今はうちのお嫁さんだ。

 薬指には誕生石のターコイズ。高校で買うはずだった新しいトランペットは買うことなく、紅さんの楽器をもらったのだった。そのため、信二の貯金はターコイズとなって紅さんの指におさまった。

 あの日に信二は夢中で相手を殴ったが、そのあとは手が痛くて私が氷で冷やしたものだった。そこは絶対に言うなと言われている。

 

 

 

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