石と誰かの物語21*「ピンクサファイヤの涙」

 いつも息子のソックス、ユニフォームを洗うたびに汚れがすさまじいので洗濯機がジャラジャラと変な音を立てる。もう野球はこの高校生活で終わりにしてほしいと、ついこの前まで思っていた。

 でも、昨夜、玄関に座り込んでいた息子を見たときは泣けてたまらなかった。

 そう、みんなのあこがれの県大会も甲子園も夢のまた夢になってしまった。

 

「昇二、ご飯できてるよ」

 

「うん、いらない」

 

「え? どうして。具合悪い?」

 

「さっきみんなとタコ焼き食べたから。もう少し後でご飯食べる」

 

「そう、吉田屋で寄り道か」

 

「うん、なんかまっすぐ帰る気になれないって良たちも言うから」

 

「そんなときもあるよね。お風呂は?」

 

「後にする」

 

 これほど元気がないとすごく心配になる。

 監督からはショックが大きいから様子を見ていてくれとメールが来ていた。

 監督だって泣きたいのは同じだろうな。

 訳のわからないウイルスになぜもこんなにダメージを受けるのか。

 はじめはよその国では大変そうだというぐらいの認識しかなかった。

 それが今では近所の店も閉まり、夫の勤める会社は思い切り経営が傾いてしまい、先日まではボーナスが上がると思っていたが今ではボーナスは消えそうで、無職になるかもという不安も出てきた。

 

「母さん、一人十万円は出るそうだからうちは昇二と沙織と僕たちで40万円入るよ」

 

「それは助かるわ。沙織の大学の授業料もいるし」

 

「マイホームは先のことになったな」

 

「いいわよ、仕方ないわ。同級生の尾崎さんは建築がストップして大変みたいよ」

 

「それから、沙織の授業料だがちょっと厳しいな」

 

「うん、それはどうにかなる。私の掛けてた保険がちょうど満期なの。沙織にも聞かれたわ。うちは大丈夫かって。友達は退学する人もいるみたいよ」

 

「かわいそうに」

 

「それで、沙織の家庭教師のバイトももうしばらくはいけないし。昇二の進学についてもちょっと不安になってきたわ。野球をするつもりで先生から推薦されていたところだってこうなったらどうなるか」

 

 先ほどの息子の様子を話すと夫も心配だなとつぶやいた。

 沙織は大学二年生。家から通っているから下宿している友達から比べると部屋代、生活費がかからないから助かっているが、親友のサナちゃんは大阪からきているので、本当に大変だそう。彼女のお父さんはタクシーの運転手さん。あちらこちらでタクシー業界の不況を伝える記事が出ている。お母さんはサナちゃんが4歳の時に会社の同僚と家を出て離婚したそうだ。以来、男手一人で頑張ってきたのに。今回のことはこの親子の生活にも暗い影を落としそうだ。

 肩を落としながら食卓に座る昇二。二階から降りてきた沙織、黙って座る夫。こんな日が来るなんていつものやかましい食卓がまるで懺悔の部屋みたい。

 

「さあさあ、お鍋よ。キムチ鍋」

 

 やたらと明るい声を出すけど誰も乗ってこない。

 

「とにかく食べて。明日は明日の風が吹く」

 

「そういわれてもなあ、野球も試合すらないし。プロ野球も見れないし」

 

「私の好きなテニスもないし」

 

 沙織もふくれっ面。

 

「そうだ、お父さん、今日は結婚記念日よ」

 

「ああ、そうだったあ。忘れてたよ」

 

「お母さん、何年?」

 

「二十三年」

 

「あ、もうすぐ銀婚式よ」

 

 銀婚式か、若い時は大げんかもしたけど、今ではまるで空気のような二人。

 

「その時には家族で旅行もできるかな」

 

「ああ、その頃は父さんもどこかで働けるかな」

 

「え? お父さん退職するの?」

 

「いや、ちょっと打診されちゃって。いわゆる肩たたき」

 

 沙織は泣き出し、昇二は箸を持ったまま呆然としてる。

 

「大丈夫さ、うちは今は困るって必死に話したから」

 

 のどがカラカラになって言葉が出ない。

 

「あなた、そんなこと聞いてないわ」

 

「まあ、はっきりした話ではないから」

 

「そんな」

 

「いいから食べよう」

 

 キムチ鍋はグツグツ煮えすぎている。

 食が進まない四人。

 どうしよう。こんな日が来るなんて。

 家の建築どころではない。

 来年は大学生が二人。学費はどうする。

 私は暢気にランチなどと言ってられない。働き口を探さないと。四九歳の私をどこが雇ってくれるだろうか。免許は何も持ってない。貯金はコツコツ貯めてやっと頭金ぐらいになった。だが、これが消えていく。

昇二の入学金、沙織と二人の授業料。絶対に働かないと無理だ。

 たっぷり作ったキムチ鍋がそのまま残った。

 誰も物言わぬ食卓からみんな消えた。それぞれの部屋に。

 ケータイが鳴る。

 

「もしもし」

 

「あ、お母さん」

 

 私の母、後期高齢者。

 

「あのね、美味しい晩柑が手に入ったから送ったわ。みんなで食べて」

 

「お母さん・・・」

 

 言葉が出ない。ぽろぽろと涙がこぼれる。母の声、心にしみる。

 

「どうしたの、何かあったの?」

 

「ううん、何にも。ちょっとストレスたまってるから」

 

「紗英ちゃん、箱の中にお小遣い入れてるわ。結婚記念日でしょう。何か買いなさい」

 

「お母さん・・・」

 

 また泣けてきた。きっと一万円が折りたたまれてポチ袋に入ってる。今まで軽く受け取っていたお小遣い。母の気持ちがうれしい。

 

「紗英ちゃん、今不況だけど大丈夫?」

 

「うんうん。心配ないわ」

 

 本当は泣くほど心配。

 

「自粛が解除になったら帰っておいで」

 

「うん、行くわ」

 

 母さんに抱きついてみたい。膝に突っ伏して泣いてみたい。

 

 あれから二週間、自粛は解除。夫は会社に行ってる。沙織はマスクしてバイトに。昇二はストレッチして

る。私は近所の工場でマスク作りをしている。夫は退職にはならなかったがいざというときに一馬力ではだめだと思ったから。

 疲れて帰ってきても、みんなマスクの向こうの顔は笑ってる。

 

「お母さん、これ」

 

「え?」

 

 夫が小さい小箱を渡してくれた。

 

「いや、結婚記念日のプレゼント」

 

「いいのに、今はそんなこと」

 

「高いものは買えなかった」

 

 子供たちがのぞき込む。ピンクサファイヤのイヤリング。

 

「わ、素敵」

 

 沙織がつけてみてっと催促する。

 きらきら光るピンクサファイヤ。弱きものを守るそうな。

 

「似合うよ」

 

「そう?」

 

「マスクしてても君とわかる」

 

 そうね、そういうことね。

 

 夏休みには母さんに見せよう。

 

 

石と誰かの物語20*「ダイヤじゃなくても」

 

 今日は参観日。

 長女の瑠璃は昨日から張り切っていた。

 

「ママ、明日は必ず来てね。私算数得意だから」

 

「わかったわ。早くお風呂に入って寝なさい」

 

「はーい」

 

 でも、風呂上りに実家から長電話がかかってきた。

 

「お母さん、今そんなこと言ったって」

 

 父の姉が田舎の家の処分について口をはさんできたらしい。祖父が景気のいい頃に建てた家は広くて柱なども高いものを使っていた。我が家のマンションとはえらい違いだ。

 

「ママ、髪を乾かして」

 

「ちょっと待って。自分でやってみて」

 

「わかった」

 

 だが、弟の真と遊びに夢中で長い髪を濡らしたまま時間が経った。私も母の泣き言を聞くしかなく子供たちはそのまま寝室に行った。

 

 朝からくしゃみをする娘。

 

「ママ、何だか顔がポッポする」

 

 額に手を当てると、熱があるようだ。

 

「いやだ、熱ないもん」

 

「あるわ、測ってみましょう」

 

「ないない」

 

 逃げ回る娘。真は嬉しそうについて回る。

 深夜に帰った夫はまだ寝ている。

 

「瑠璃、早くして。熱があったら学校は休まないと」

 

「いやだ、今日は参観日だもん。ママ来てくれるって言ったでしょう」

 

「行くつもりだけど瑠璃が病気だと行けないわ」

 

「熱ないもん」

 

 そういいながらしぶしぶ座る娘。熱を測ると37度8分。

 

「これは休むしかないわ」

 

「あーん、やだあ。初めての参観日なのに」

 

「ママも行きたかったわ。でも、熱があったら先生も困るわよ」

 

 真はお休みお休みと言いながら嬉しそうに跳ね回ってる。姉が休みと聞いて遊んでくれると思ってるようだ。

 

「パパを起こしてこないと」

 

 寝室に行くと大いびきで寝ている夫。

 

「ねえ、瑠璃が熱があるから学校は休まないと」

 

「うーん、そうか。病院は?」

 

「今はそれほど高熱じゃないから、薬を飲ませて様子を見るわ」

 

「わかった」

 

 とまた寝始める。

 

「だから、真を幼稚園に連れて行って」

 

「え? 眠いなあ。真も休んだら?」

 

「何言ってるのよ。あの子は元気。連れて行って」

 

「眠いよ」

 

「じゃ、瑠璃と一緒にいて。私が連れて行くから」

 

「わかった。布団に入れて僕と寝よう」

 

 それが聞こえたのか、いやだいやだと泣き出した瑠璃。

 

「パパといたくない。真はパパと行けばいいじゃない」

 

「いやだもん」

 

 真まで夫を嫌がる。

 ふだんはあれほどパパがいいと言ってるのに。今は極悪人のように嫌われている。

 

「もう、早く起きて」

 

「僕は今日も仕事あるんだよ。寝ておかないと」

 

「でも、子どもが病気なのよ」

 

「熱ぐらいどうってことない」

 

 すると、瑠璃がそうだそうだとランドセルを背負う。

 

「熱ぐらいどうってことない。今日は算数だけで終わりだから」

 

「そんなこと言って」

 

 だが、そうか、今日は一時間だ。あとは懇談会とPTA総会くらいだ。行かしてみようか。

 

「じゃ、薬を飲んで。それからお腹にカイロ入れて」

 

 いいんだろうか。心配だが流感ではない。

 朝食をしっかり食べさせて薬を飲ませる。初めてカイロを持った瑠璃は嬉しそうだ。

 

「これはお守りみたいなものだから、授業中に出したりしないでね」

 

「わかった。行ってくる」

 

「行ってらっしゃい。具合悪そうになったらすぐ病院に連れて行くからね」

 

「はーい」

 

 真はパジャマから幼稚園の制服に着替えている。

 

「あら、お利口ね」

 

 真を幼稚園の送迎バスに乗せると、参観日に着てほしいといった服を着る。

 やれやれ、こんなピンクのセーターは着ないわね。いつもは黒かダークグリーンの服ばかり。薄情者の夫を置いて学校へと自転車を走らせる。

 一年生の教室は華やかなママたちの化粧のにおいがする。廊下は寒いから中に入ると、瑠璃がカイロを見せびらかしている。

 

「瑠璃」

 

 目で怒った顔をして見せるが、一向に効き目がない。みんながいいなあと羨ましがってる。思わず後ろから席に近づき取り上げる。

 

「元気そうだから預かっておくわ」

 

「ああ、ママ〜」

 

 なんて甘ったれた声。瑠璃はいつもはしっかり者だと思っていたが、今日はうれしくてのぼせてる。

 算数は頑張って手も上げていたが、いちいち私のほうを向いて得意そうに笑うものだから、保護者もつられて笑ってる。瑠璃ったら。恥ずかしさで消え入りたい。

 熱は薬のせいかすっかり下がっているようだ。

 それでも、いつも朝から『早く早く』と追い立てるばかりだから、瑠璃がこんなに子供らしいところをみることはあまりない。お姉ちゃんでしょと、我慢させることも多い。久しぶりにこんな時間をとれたことはよかったと思う。

 PTA総会まで私もがんばって、一緒に帰る。夫は会社に出かけたようだ。

 机にはメモ。

 

「朝はごめん。どうしても眠かった。これは昨日買った。結婚記念日のプレゼント」

 

 忘れていた。

 結婚10年だ。

 スイート10のダイヤではないが、十分うれしい。

 きらきら光るロンドンブルートパーズのペンダント。

 私の誕生日も忘れるくせに、結婚記念日は覚えていたのね。

 私は忘れていたわ。

 

 

 

 

「ママ、きれいねえ」

 

「そう」

 

「結婚記念日ってなあに」

 

「パパのお嫁さんになった日のことよ」

 

「うわあ、おめでとう。ママはパパに何を上げるの?」

 

 そ、そうね。今からワインでも買ってくることにしよう。

 

 今晩はパパの好きなエビフライでも作るわ

 

 

 story 河 美子

石と誰かの物語19*「ターコイズの夜」

   熱い鍋が寒い夜には欠かせない。

 私のような働き盛りの母を持つ息子はぶつぶつと文句を言うが。

 

「また、鍋かあ」

 

「何よ、野菜も肉もたっぷりよ」

 

「豚だろう」

 

「豚のどこがいけないのよ」

 

「霜降りの牛肉というのを一度は食べたいなあ」

 

「霜降りの肉を腹に巻いた私が作ってるからおいしいわよ」

 

「ちっ」

 

 確かに私も霜降りの牛肉が食べたい。でも、このところ売り上げが悪くて全然給料が上がらない。ボーナスもテレビの伝える大手企業の額を聞くと、その何分の一だわ。まだ出るだけありがたいと思えと言われるほど。つまんない。

 夫は単身赴任で東北に行って二年。息子は中学三年生。クラブ活動の吹奏楽に夢中で来春に受験とは思えないほどトランペットを吹き鳴らす。ご近所に迷惑だからと二階の彼の部屋はいつも雨戸を閉めている。

 

「ねえ、今度の日曜日、親父は帰ってくる?」

 

「うん、多分」

 

「そうか、ならいいか」

 

「何がいいのよ」

 

「うん、新しい楽譜がほしいんだ」

 

「自分の小遣いで買いなさい」

 

「いや、あれは貯めておくの」

 

「どうして」

 

「新しいのを高校に入ったら買うから」

 

「もったいない。使いなさいよ、今のを」

 

「いや、高校はもっといいのを使いたいんだ」

 

「弘法筆を選ばず」

 

「選ぶよ」

 

「それより、その高校に入れるかどうか心配したら?」

 

「大丈夫。僕はそこそこはできるほうだから」

 

「底値よ」

 

「そんなことないよ、津田より上だもん」

 

「あら、津田君は優秀なお姉ちゃんがいるからしっかり教えてもらってるかもよ」

 

 津田君のお姉さんは美人で吹奏楽のマドンナと呼ばれていた。

 紅という名前がぴったり合う人だ。今は音大の付属校に進んでいる。

 

「ああ、そうだよ、あいつはいいなあ。美人で頭もいいお姉ちゃんがいて、しかも性格だってまあまあだよな。」

 

「ふーん、そうなんだ。紅さんのことは褒めるのね。他の人には厳しいのに」

 

「ちっ、変なこと言うなよ」

 

 と言いつつ、顔が妙に赤い。

 

「あ、ひょっとして紅ちゃんのこと」

 

「違うよ、これだからおばさんの会話は嫌なんだよ。食うぞ」

 

 息子は鍋の中の肉を嫌がっているとは思えないほど食いついていた。

 これほどおいしそうに食べてくれるなら言うことはない。せっせと鍋に野菜も入れていく。

 ふと、机の上のケータイが鳴る。

 

「誰から?」

 

「津田」

 

 言いながら、立ち上がり隣の部屋に行く。

 

「嘘だろ、いつ、どこで。今から行く。一人で行くなよ。俺もついていくから」

 

 真っ青になった息子の顔が引きつっている。

 

「どうしたの」

 

「紅が男に襲われて帰ってきたって」

 

「えっ、いつ、どこで、誰にされたのよ」

 

「知るかよ、今から行ってくる」

 

「待って、紅ちゃんにはご両親がいるでしょうから、あなたが行くと彼女がつらいわよ」

 

「違うんだ、津田が相手がわかるって、そこへ行くっていうから」

 

「ダメよ、子どもだけでそんなこと。警察に行くように言わないと」

 

「津田が泣いてる。俺行ってくる」

 

 制止するのも聞かず、息子は行ってしまった。

 津田君の家の番号を探さないと。前に息子が泊まりに行ったことがあった。電話番号を書き留めていたはずだ。震えて受話器を取る。

 津田さんの家はきっとみんなが大騒ぎしているだろうに。

 震える声で津田君のお母さんが電話に出た。津田君からの電話で息子が出ていったことなど話すと、お母さんは大声で旦那さんを呼んでいる。ご主人にまた話をするが、みんな気持ちがささくれ立っているから話がうまくできない。

 津田君はすでに家を出ているという。紅さんが電話に出てきた。

 

「おばさん、多分駅の待合室に行ってると思います。あの子たち、いつも寒いからあそこで待ち合わせしてるんです。ごめんなさい。私のせいで」

 

「何言ってるの、あなたが謝ることじゃないわ。すぐに警察に伝えて。私も駅に行きます」

 

 コートを手に外に出ると、雪まで降ってきた。

 駅まで五分程度なのに、やたら長く感じる。待合室に二人の姿はない。

 自転車置き場には自転車があるのに。

 

「そうだ、あの人に電話しないと」

 

 夫は帰っているだろうか。社宅には留守番電話が受ける。ケータイは圏外なのか通話できない。

 すると、西出口のコンビニ前に二人の姿。

 駆け寄ると、津田君の顔には大きなあざが。

 

「どうしたの。その顔」

 

「紅のことを前から追いかけてくる前野というのがいたんだ。そいつが待てって言ったら振り向きざまに殴られた」

 

「その人はどこ」

 

 津田君は静かに指さす。看板の後ろで男が倒れている。

 

「えーっ、どうしましょう。早く救急車を呼んで」

 

「僕が呼んだ」

 

 息子が言う。

 息子の手が腫れている。

 

「津田が殴られたから、殴ったんだ。そしたら倒れちゃった」

 

 すると、男はうめき声をあげながら起き上がった。

 

「あなた、大丈夫?」

 

「なんだよ、こいつ。誰なんだよ」

 

 息子を指さし怒鳴る男。

 

「津田の友達だ。加納信二」

 

 そこへ救急隊が来た。

 

「この人が殴られて倒れたんです」

 

「殴ったのは誰」

 

「僕です」

 

「救急車を呼んだのは誰」

 

「それも僕です」

 

「なんだよ、何やってるんだ、君たち」

 

 そこへ警察も来て駅はやじ馬でいっぱいになった。

 津田君一家も来て警察で事情を聴かれる羽目になった。

 前野という男は、前から紅さんのことが好きで、ストーカーしていたという。今日も紅さんを追いかけようと自転車置き場で待ち伏せし、逃げようとする紅さんの手をつかんだら思い切り大声を出されて、口を押さえようとしたところ紅さんが倒れて水たまりに落ちたという。人が近づいて男も逃げたが、彼女の姿に津田君はすべてを聞かずに走り出した。紅さんはショックは大きかったが、津田君はずぶ濡れの姉の姿にいたたまれず敵を取りに行ったという。

 もちろん前野は捕まって、二人の中学生は厳重に注意された。

 

 あれから十年。

 

 「お母さん、あの日にね、信二さんがあの男を殴ってくれたことがすごくうれしくて」

 

 今はうちのお嫁さんだ。

 薬指には誕生石のターコイズ。高校で買うはずだった新しいトランペットは買うことなく、紅さんの楽器をもらったのだった。そのため、信二の貯金はターコイズとなって紅さんの指におさまった。

 あの日に信二は夢中で相手を殴ったが、そのあとは手が痛くて私が氷で冷やしたものだった。そこは絶対に言うなと言われている。

 

 

 story 河 美子