石と誰かの物語19*「ターコイズの夜」

   熱い鍋が寒い夜には欠かせない。

 私のような働き盛りの母を持つ息子はぶつぶつと文句を言うが。

 

「また、鍋かあ」

 

「何よ、野菜も肉もたっぷりよ」

 

「豚だろう」

 

「豚のどこがいけないのよ」

 

「霜降りの牛肉というのを一度は食べたいなあ」

 

「霜降りの肉を腹に巻いた私が作ってるからおいしいわよ」

 

「ちっ」

 

 確かに私も霜降りの牛肉が食べたい。でも、このところ売り上げが悪くて全然給料が上がらない。ボーナスもテレビの伝える大手企業の額を聞くと、その何分の一だわ。まだ出るだけありがたいと思えと言われるほど。つまんない。

 夫は単身赴任で東北に行って二年。息子は中学三年生。クラブ活動の吹奏楽に夢中で来春に受験とは思えないほどトランペットを吹き鳴らす。ご近所に迷惑だからと二階の彼の部屋はいつも雨戸を閉めている。

 

「ねえ、今度の日曜日、親父は帰ってくる?」

 

「うん、多分」

 

「そうか、ならいいか」

 

「何がいいのよ」

 

「うん、新しい楽譜がほしいんだ」

 

「自分の小遣いで買いなさい」

 

「いや、あれは貯めておくの」

 

「どうして」

 

「新しいのを高校に入ったら買うから」

 

「もったいない。使いなさいよ、今のを」

 

「いや、高校はもっといいのを使いたいんだ」

 

「弘法筆を選ばず」

 

「選ぶよ」

 

「それより、その高校に入れるかどうか心配したら?」

 

「大丈夫。僕はそこそこはできるほうだから」

 

「底値よ」

 

「そんなことないよ、津田より上だもん」

 

「あら、津田君は優秀なお姉ちゃんがいるからしっかり教えてもらってるかもよ」

 

 津田君のお姉さんは美人で吹奏楽のマドンナと呼ばれていた。

 紅という名前がぴったり合う人だ。今は音大の付属校に進んでいる。

 

「ああ、そうだよ、あいつはいいなあ。美人で頭もいいお姉ちゃんがいて、しかも性格だってまあまあだよな。」

 

「ふーん、そうなんだ。紅さんのことは褒めるのね。他の人には厳しいのに」

 

「ちっ、変なこと言うなよ」

 

 と言いつつ、顔が妙に赤い。

 

「あ、ひょっとして紅ちゃんのこと」

 

「違うよ、これだからおばさんの会話は嫌なんだよ。食うぞ」

 

 息子は鍋の中の肉を嫌がっているとは思えないほど食いついていた。

 これほどおいしそうに食べてくれるなら言うことはない。せっせと鍋に野菜も入れていく。

 ふと、机の上のケータイが鳴る。

 

「誰から?」

 

「津田」

 

 言いながら、立ち上がり隣の部屋に行く。

 

「嘘だろ、いつ、どこで。今から行く。一人で行くなよ。俺もついていくから」

 

 真っ青になった息子の顔が引きつっている。

 

「どうしたの」

 

「紅が男に襲われて帰ってきたって」

 

「えっ、いつ、どこで、誰にされたのよ」

 

「知るかよ、今から行ってくる」

 

「待って、紅ちゃんにはご両親がいるでしょうから、あなたが行くと彼女がつらいわよ」

 

「違うんだ、津田が相手がわかるって、そこへ行くっていうから」

 

「ダメよ、子どもだけでそんなこと。警察に行くように言わないと」

 

「津田が泣いてる。俺行ってくる」

 

 制止するのも聞かず、息子は行ってしまった。

 津田君の家の番号を探さないと。前に息子が泊まりに行ったことがあった。電話番号を書き留めていたはずだ。震えて受話器を取る。

 津田さんの家はきっとみんなが大騒ぎしているだろうに。

 震える声で津田君のお母さんが電話に出た。津田君からの電話で息子が出ていったことなど話すと、お母さんは大声で旦那さんを呼んでいる。ご主人にまた話をするが、みんな気持ちがささくれ立っているから話がうまくできない。

 津田君はすでに家を出ているという。紅さんが電話に出てきた。

 

「おばさん、多分駅の待合室に行ってると思います。あの子たち、いつも寒いからあそこで待ち合わせしてるんです。ごめんなさい。私のせいで」

 

「何言ってるの、あなたが謝ることじゃないわ。すぐに警察に伝えて。私も駅に行きます」

 

 コートを手に外に出ると、雪まで降ってきた。

 駅まで五分程度なのに、やたら長く感じる。待合室に二人の姿はない。

 自転車置き場には自転車があるのに。

 

「そうだ、あの人に電話しないと」

 

 夫は帰っているだろうか。社宅には留守番電話が受ける。ケータイは圏外なのか通話できない。

 すると、西出口のコンビニ前に二人の姿。

 駆け寄ると、津田君の顔には大きなあざが。

 

「どうしたの。その顔」

 

「紅のことを前から追いかけてくる前野というのがいたんだ。そいつが待てって言ったら振り向きざまに殴られた」

 

「その人はどこ」

 

 津田君は静かに指さす。看板の後ろで男が倒れている。

 

「えーっ、どうしましょう。早く救急車を呼んで」

 

「僕が呼んだ」

 

 息子が言う。

 息子の手が腫れている。

 

「津田が殴られたから、殴ったんだ。そしたら倒れちゃった」

 

 すると、男はうめき声をあげながら起き上がった。

 

「あなた、大丈夫?」

 

「なんだよ、こいつ。誰なんだよ」

 

 息子を指さし怒鳴る男。

 

「津田の友達だ。加納信二」

 

 そこへ救急隊が来た。

 

「この人が殴られて倒れたんです」

 

「殴ったのは誰」

 

「僕です」

 

「救急車を呼んだのは誰」

 

「それも僕です」

 

「なんだよ、何やってるんだ、君たち」

 

 そこへ警察も来て駅はやじ馬でいっぱいになった。

 津田君一家も来て警察で事情を聴かれる羽目になった。

 前野という男は、前から紅さんのことが好きで、ストーカーしていたという。今日も紅さんを追いかけようと自転車置き場で待ち伏せし、逃げようとする紅さんの手をつかんだら思い切り大声を出されて、口を押さえようとしたところ紅さんが倒れて水たまりに落ちたという。人が近づいて男も逃げたが、彼女の姿に津田君はすべてを聞かずに走り出した。紅さんはショックは大きかったが、津田君はずぶ濡れの姉の姿にいたたまれず敵を取りに行ったという。

 もちろん前野は捕まって、二人の中学生は厳重に注意された。

 

 あれから十年。

 

 「お母さん、あの日にね、信二さんがあの男を殴ってくれたことがすごくうれしくて」

 

 今はうちのお嫁さんだ。

 薬指には誕生石のターコイズ。高校で買うはずだった新しいトランペットは買うことなく、紅さんの楽器をもらったのだった。そのため、信二の貯金はターコイズとなって紅さんの指におさまった。

 あの日に信二は夢中で相手を殴ったが、そのあとは手が痛くて私が氷で冷やしたものだった。そこは絶対に言うなと言われている。

 

 

 

石と誰かの物語18*「紫陽花の咲く頃」

 

大きな洗濯機を狭い脱衣所にやっとこさ入れてもらう。

 

「ほう、ぎりぎり入ったな」

 

 夫は暢気な声で言う。

 

「はい、奥様の計測が正しかったから入りましたね」

 

 取付業者が苦笑いしながら言った。

 

「いや、それ僕だから」

 

 はいはい、あなたが測りました。

 

 この梅雨空の下、毎日フル回転の洗濯機が壊れたのだ。

 雨でも、子どもたちのサッカーで汚れたユニフォームや景気よく使うバスタオルが山積み。洗濯機とは思えないようなじゃりじゃりという音。明らかに泥もつれのものを入れた音が毎回していた。

「洗ってるから」という息子の声を聞いたけど、朝見たものは洗濯水の中で空しく浮かぶユニフォーム。背番号は55。

 

「ちょっと、洗えてないわよ」

 

「そんなの知らないよ。洗剤入れて洗濯機を回したところまではやったもん」

 

「もう、私出かける時間なのに」

 

「僕も朝練あるから」

 

 弁当代を机からとると、パンを口にくわえて出かけてしまった。

 妹はのんびりと朝からシャンプーして涼しそうな顔で、我関せずを決めているようだ。

 

「ちょっと、まあちゃん、ママ出かけるから洗濯機の水抜いておいて」

 

「だめ、私ももう学校。だって、スイッチが入らないんでしょう。水も抜けないわよ」

 

「そ、そうね」

 

「パパ、ママが呼んでる」

 

 下から叫ぶと夫が眠そうな顔で起きてきた。

 

「ほら、洗濯機が壊れてる。ママが水を抜いてって」

 

「えーっ、僕は電化製品わからない。」

 

 そうなのだ、夫は蛍光灯すら替えられない。できないといえば、妻が何とかしてくれると思っているのかもしれない。でも、この人を動かすより、私が動いたほうがはるかに速いのだ。

 

「説明書はどこだ?」

 

 それを探す間に日が暮れる。

 

「もういいわ」

 

 怒ることもあきらめて家を出る。駅まで立ちこぎすればいつもの電車に間に合う。風でスカートが舞い上がる。もう知らない。今日に限ってこのワンピースを着たのがばかだった。太ももを見せながらも立ちこぎ。もう、誰もヒューヒューとは言ってくれないが、いいのだ。

 電車が私の目の前で扉を閉めた。いじわる。

 この日は一日働いてもいいことは一つもなかった。会社でも上司が急にインフルエンザで休み、同僚は二日酔いで朝からウトウトするばかり。苦情の電話も一人で対応するしかなく、腹立つことばかり。

 やっと、昼休みになり、家電量販店に電話する。

 

「洗濯機が壊れて。買って10年ですけど」

 

「そのタイプの洗濯機はもう寿命ですね。直すより、買ったほうがいいかもしれませんよ」

 

「そうね、子どもも大きくなったし、容量が足りないかも。また、帰りに寄ります」

 

「はい、お待ちしてます」

 

 そうよね、あの子たちが小学生低学年だったもの。今は大人が4人。7キロでは足りないわよね。でも、ボーナスは家のローンに大半とられるからなあ。夏休みには夏期講習のお金もかかるし。

 ため息をつきながら夫に電話する。

 

「ああ、そうだな。新しいのを買うか」

 

「寸法を測ってくれる?」

 

「いいよ、縦、横、奥行きだな」

 

「排水ホースの位置がどっちになるかも調べて」

 

 夫は夜勤明けだから今日はゆっくりしている。

 

「任せて。得意だから」

 

 電機は苦手でも、彼はこういうコツコツ仕事は向いている。

 家電量販店は欲しいものがいっぱいだった。

 美顔器、風呂でも見ることができるテレビ、野菜ジュースができる静かなジューサー。我が家のは隣の受験生も起きてしまうほどの騒音だ。

 それでも、洗濯機売り場に行くと、なんとまあ高価なこと。

 

「電話していた片山です」

 

「お待ちしてました。ご家族は何人様ですか」

 

「大人が4人」

 

「それではこの大きさがおすすめです」

 

「わあ、これ大きいわ。我が家の洗濯場には無理だわ」

 

「そうですか、横幅がどれくらいならいいですか」

 

「このくらい。65センチくらいまで」

 

 指さしたものはやはり7キロクラス。

 

「これだと二回はする必要があるでしょう」

 

「ええ、困るの。もっと大きくないと。でも家が小さいし。今時外で洗うことはないわね」

 

「そうですね、外に置く家は最近ないですね。ガレージに置く家はありましたよ」

 

「車もないわ」

 

 他愛もない話を入れながら、この店員さんは優しく感じがいい。

 

「このタイプはどうですか。先ほどより大きめです。10キロです」

 

「あら、サイズは入るかしら」

 

「大丈夫です。61ですから」

 

「そう。これにしようかな。乾燥機は置けないのよ」

 

「乾燥の送風がついてますから、あとはお風呂場乾燥機があればいいと思います」

 

「そうなの、いいわね。値段もこれなら買えそうだわ」

 

「ええ、この品物は今新しいタイプが出たのでお安くしてます」

 

「ますますいいわ」

 

 カード払いで8万弱。よし、一件落着。

 エスカレーター横の美顔器を見ると、いい感じでスチームが出ている。

 

「いかがですか、これも」

 

「うーん、使う暇がないのよね」

 

「お休み前の10分。自分へのご褒美に」

 

「でも、その10分がないの」

 

 本当はあるけど、今日の財布の中身は洗濯機でなくなった。

 とにかく、家の洗濯機の中のものをどうにかしないと。

 

 家に帰ると、あの洗濯物がきれいにたたまれている。

 どうしたの、あ、このたたみ方は義母だ。

 台所からはいい匂い。

 

「お帰りなさい」

 

「わ、いらっしゃるならお迎えに行きましたのに」

 

「いいのよ、みんな忙しいんだから」

 

「洗濯機が壊れていたのにどうしたのかしら」

 

「ああ、それは敦が出してコインランドリーに持って行ったわ」

 

「よく開けましたね」

 

「違うわよ、私がコンセントを抜いてやればスイッチが入ることあるからって言ったの。そうしたらふたはあいたのよ」

 

「そうですか。知らなかった」

 

「ゴミ袋に入れて敦が自転車で運んだの」

 

「良かった」

 

「あなたが洗濯機を買ってくるから、これぐらいしておかないとって」

 

 

ああ、こんなとこを見られるとは。仕方ない。

 

 

「ところで、お母さん、どうされたんですか」

 

「同窓会なの。50年ぶり」

 

「わあ、すごい」

 

「ホテルでやるのよ、明日。だから、今晩泊めてね」

 

「どうぞ、何日でも」

 

「はいはい、気持ちだけ受け取るわ。お父さんが寂しがるから」

 

「仲がいいですね」

 

「あの人は毎月同窓会っていうけど、わたしのこの同窓会は本物よ」

 

 ケラケラと楽しそうに笑う義母。このあっさりした感じが好きだ。友達はみんなそう仲良くなれないっていうけど。私は結構うまくいってると思う。どっちが努力してるって? 私ではないみたい。

 その夜、おいしい煮込みハンバーグを義母が作ってくれたので、みんな満足に夕食タイムを過ごせた。

 

「おばあちゃん、もっといてよ」

 

「そうだよ、この手作り感、いいなあ」

 

 娘や息子の気持ちはよくわかる。いつも簡単メニューの夕食だから。

 

「本当に。お父さんにも来ていただけたらいいのに」

 

「そうなの。でも、あの人は将棋の教室の会長さんだから忙しいんだって」

 

「毎日開けるんですか?」

 

「ええ、最近は人気が出てきて。ところで、このブローチ。わたしが作ったの」

 

「わあ、すごい」

 

「ホテルでやるのよ、明日。だから、今晩泊めてね」

 

「どうぞ、何日でも」

 

「はいはい、気持ちだけ受け取るわ。お父さんが寂しがるから」

 

「仲がいいですね」

 

「あの人は毎月同窓会っていうけど、わたしのこの同窓会は本物よ」

 

 ケラケラと楽しそうに笑う義母。このあっさりした感じが好きだ。友達はみんなそう仲良くなれないっていうけど。私は結構うまくいってると思う。どっちが努力してるって? 私ではないみたい。

 その夜、おいしい煮込みハンバーグを義母が作ってくれたので、みんな満足に夕食タイムを過ごせた。

 

「おばあちゃん、もっといてよ」

 

「そうだよ、この手作り感、いいなあ」

 

 娘や息子の気持ちはよくわかる。いつも簡単メニューの夕食だから。

 

「本当に。お父さんにも来ていただけたらいいのに」

 

「そうなの。でも、あの人は将棋の教室の会長さんだから忙しいんだって」

 

「毎日開けるんですか?」

 

「ええ、最近は人気が出てきて。ところで、このブローチを作ったの」

 

「わあ、すごい」

 

 見ると義母の手にクリスタルのブローチが。

 

「どうしたんですか?」

 

「ビーズ教室を老人クラブで開いてくれたの」

 

「本当はこれを宝石で作りたいんだけど。まずはビーズで」

 

「おばあちゃん、使わなくなったら私に頂戴」

 

 娘が早速おねだり。

 

「だめよ、まずは私に」

 

 義母が小さいポーチからイヤリングを出した。

 

「これをあなたに」

 

「どうかしら」

 

「素敵です」

 

 小さく揺れるクリスタルのイヤリング。

 

「わあ、いいなあ。おばあちゃん、私には?」

 

「はい、キーホルダー」

 

 こういうところがいいのよね。娘にもカラフルビーズのキーホルダー。

 

「わあ、ありがとう」

 

「え、おばあちゃん、僕には?」

 

「あなたはこれ」

 

 見ると、ミサンガ。紺のビーズが腕を引き締めて見せる。

 

「ひえーっ、おしゃれ」

 

「お母さん、みんなにこんなにたくさんありがとうございます」

 

「いいのよ、喜んでくれる人がいるのはいいものよ。お父さんだと渡すものがないもの」

 

 笑う義母にみんなもつらされて笑う。

 子供たちが寝ると、義母が話を始めた。

 

「お父さんがね、軽い認知症が出てきたの。旅行も行けなくなりそうだから今回は姉に頼んできたの。話しておかないといけないと思って」

 

「敦さんは?」

 

「あの子には話したわ」

 

 夫の寂しげな様子が目に浮かぶ。

 

「私もいずれ同じになるかもしれないけど、その時は施設に入れてね。お父さんもそういう時が来たらまた相談するわ。とにかく来年の喜寿はみんなで祝ってあげたいと思うの」

 

「ええ、段取ります。心配しないで」

 

「ありがとう。それから、大切なものはうちの金庫に入れてるわ。これがそのノート」

 

 ノートをめくると、銀行預金のナンバーや、保険の証書の会社名、印鑑証明書や家の権利証、実印もひとまとめにして金庫に入れてるという。

 

「投資信託や株はそこに書いてるぐらいで、いずれ処分して現金化するわ。そうしたらこの通帳に」

 

「お母さん…」

 

 言葉を失った。

 

「現金は私たちが施設に入るまでは必要だから、残ったら使って」

 

 そんなことを考えながらビーズでいろいろと作っていたのか、そう思うと寂しくてたまらなくなった。

 ポロポロと涙がこぼれると、義母は静かに言った。

 

「私は本当に感謝してるのよ、敦がいろいろあって会社に行けなくなったとき、あなたはいつも支えてくれたわ。銀行マンだったのに、今は食品工場勤務。本当に苦労掛けたわ」

 

「お母さん、気にしないでください。私は外で働くほうが向いてるし、家に彼がいるほうが子供も落ち着いたから。これでよかったんです」

 

 翌日、着物を着て同窓会に出かけた義母。

 私は胸にあのブローチをつけて出かける。

 娘の自転車で揺れるキーホルダー。

 息子の腕にはミサンガが光る。

 

 夫は義母に作ってもらった小さなポーチにこっそり小さな写真を入れている。アルバムにあった古い将棋盤とにらめっこしてる父の写真。

 

 いつか将棋も忘れてしまうかもと、小さく笑った夫。

 

 いいえ、忘れないわ。

 

 私たちが。

 

 

河 美子 作 

 

 

 

 

石と誰かの物語17*「モルガナイトが好き」

 年金で暮らすというのは結構大変なこと。今までは給料で友だちと飲みに行ったり、好きな通販で買ったりしていたことができない。今までの収入からほぼ三割減。

 それでも専業主婦の友だちから言わせたら羨ましいことだと。自由に使える金があるということ。その金とは退職金。それは三十年も働いたから当然だ。

 本当はもっともらえると計算していたが、昔のように働いていけば給料は上がり続けるということはなく、五十を過ぎる頃から下降線となった。両親は二人でボケる前にケアハウスで食事も出してもらう生活がいいと入居した。幸い公務員生活だった父の年金は、私の年金と比べるとはるかに多いため、ケアマネージャーは希望通りの施設を探してくれた。

 家も主がいなくなると劣化が進み、寂しいことだが売ることにすると父から聞いた。何よりも空き家とわかると不審者が入りやすい。庭には陶器のテーブルとイスが置いていたが、そこに弁当の食べた形跡が二度三度。昼休みに庭で寛ぐ見知らぬ人。車庫には煙草の吸った跡。火事でも出したら大変だと不動産屋に頼むことにした。

 実家はバイパスに面しているし、築山のある家なんて結構高値で売れると昔は話していた。しかし、今は高台でない実家は浸水地域だからと評価が低い。

 両親が若い頃は津波や液状化という心配は全くしなかった。

 兄は九州の大学を卒業するとすぐに同級生と結婚しそのまま永住。妹は昔からモテる子で短大卒業し、保険会社に入るとこれまたすぐに見初められて結婚し専業主婦となった。兄も妹も子宝に恵まれて、今は学資に青息吐息。私は見初められることもなく、素晴らしい恋愛もなく、ひっかかった男には妻がいて、妻と取り合うほどの男でもなくてすぐに別れた。

 独身で困ることは今のところない。もちろん子どもがほしかったり寂しかったりはあるが、買い物を止められることもなく学資に四苦八苦することもない。テレビ通販やカタログでほしいものは手に入れて、痩せるはずもないサプリメントを買っても叱る人はいない。

 十年前に自分のマンションを手に入れた。中古の2LDKで私には十分だった。必要なのはパソコンと、通販を買うためのテレビ。キーボードに触れる指に光るモルガナイトのリング。先日妹に見せたら欲しがる欲しがる。

 

「ねえねえ、私はもう結婚リングしかないのよ。あとは安いのばっかり。子どもの学校にお金かかって。こういう本物がほしいの。お姉さんはいつでも買えるんだからちょうだい」

 

「だって、高かったのよ。私だってそう買えないわよ」

 

「いいじゃない、サイズはおんなじだし。これ私の方が似合う」

 

「失礼ね。でも、子どももいないし、いずれはあなたのものよ」

 

「やだあ、八十ぐらいにもらってもつまんない」

 

 この子って、五十にもなって子どもみたいな言い方をするんだから。

 でも、届いて一週間のリングをやりたくはない。仕方ないから去年買ったシトリンのリングを妹に渡した。

 

「これもいいわね。でも、いつかそのリングもちょうだいね」

 

「はいはい。いずれね」

 

 妹が帰ると早速テレビ通販を見る。

 出た、モルガナイトのペンダント。

 ツタの葉がモチーフとなり、しずくの形のモルガナイトが葉に揺れている。

 

「素敵」

 

 一応、番号を書きとめる。すぐに電話してはダメよ。今月はモルガナイトのリング買ったんだから。

 テレビに後ろ髪を引かれながらもパソコンを開く。

 株が上がってる。売ろう。今ならペンダントが買える。

 この決断力は速いの。

 あの男と別れるには三年もかかったけど、買う決断は速い私。即株を売却。

 

「おお、ペンダント買ってもまだ余る。すごいじゃん。こういうこともあるのね」

 

 喜んだのもつかの間。株はさらに上がりペンダントが三つ買えそうになった。

 

「そうよ、そうなの。私っていつもそうだわ。運がない」

 

 ピンクのモルガナイトは心の癒しになるとか。

 だから欲しいのね。

 ふと、テレビに目を向けるとまたモルガナイト。

 

 

 

「先ほどのペンダントに合うブレスレット。いかがでしょうか」

 MCが細い手に載せる。画面に吸い寄せられる。

 素敵よ。

 でも、ペンダントにブレスレットの二つは無理。だが、MCは続ける。

 

「ほら、先日出たモルガナイトの指輪にも合わせてみましょう」

 

 出た。私と同じリング。

 確かに合うわ。そうよね、デザイナーが同じ人だって。

 

 すると、電話が鳴った。

 

「お父さんが転んで骨折したって」

 

 妹の慌てる声。

 

「どこを骨折したの?」

 

「足の付け根」

 

 これは大変、通販どころではない。病院へ向かう。母も一緒に行くと言ったそうだが、完全介護だからと病院が断ったようだ。

 

 

 白いベッドに寝る父。

 

「悪いな、ベッドにつまづいて転んだら骨折だ」

 

 自嘲気味に話す父。

 

「私は暇だから気にしないで。それより痛かったでしょう」

 

「動かせば痛いが、寝てれば何ともないさ」

 

「完全介護だっていうから、お父さんは心配しないで」

 

「そうか、母さんじゃトイレに私を連れていくこともできないさ。力がないから。歳をとるのは嫌だなあ」

 

「そう言わずに命の洗濯よ。ゆっくり休んで」

 

「休みっぱなしだよ、おれは」

 

「私もよ」

 

「お前も定年か」

 

「そう」

 

「一人で優雅に暮らしてるか?」

 

「うん、まあね」

 

 父は昔から言葉は少なく娘に優しい。

 

「そこの引き出しをあけてごらん」

 

 あけると、封筒が入っている。

 

「いつか死ぬと思うから、この前遺言書を書いた。母さんと一応相談したよ。金はあんまりないが、あの家が売れたらそれとあわせて三人で分けなさい。それと、形見に残すような財宝もない。母さんの着物で好きなものがあればどうぞと言ってたぞ」

 

「私の予想通りね。豪華な別荘もないわね。大丈夫よ、わかってるから」

 

「それと、これだ」

 

「なあに」

 

 小さな箱。中には赤サンゴのリング。

 

「母さんが渡してくれって。母さんの厄年に買ったものだよ。赤いものが厄除けになるってね。随分昔だがいいものはこれしかないってさ。妹にはこの前に学資のカンパをしたから、これはお前にって」

 

 そうか、そんなこと夫婦で話してるのね。妹はちゃっかりしてるから何も聞いてないけど。

 意外と元気な父に安心したが、赤サンゴのリングは嬉しかった。

 明日は母さんに会いに行こう。

 

 その前にモルガナイトのブレスレット買おう。しばらくは父の看護にいくから自分へのご褒美。

 電話しなくちゃ。

 

 

 

作:河 美子