石と誰かの物語16*「コラム」

夫を送り出した後、今日は休みの私。

徐(おもむろ)に新聞を取り出し、コーヒーを飲む。

休日のこの時間は至福の時。

何気なくテレビ欄から開くのが私の癖。

二人の子どもは大学生になり生活費と学費を送るために夫婦が汗水たらして働く。特に今年は長男が就活に入り、次男は新入生。どれほど金がかかったことか。二人のボーナスまでむしりとられた。

子どもが県外に行くことも、私立に入ることも十分わかっていたが実際二人が同時に大学に在籍することは考えていなかった。

しかも、就活だからスーツ代や旅費までがかかるなんて。なんなのよ。

それでもどうにかそういう生活が可能だというのは幸せなことだと思う。私の周りには夫の会社が倒産したり、親の介護で自分たちの生活が崩れていく人もかなりいる。

そんな中、新聞のコラムに同級生の名前を見つけた。

 

「新聞社に入ったって、昔聞いたけどコラムに名前を見つけたのは初めてだわね」

 

なんか自分が彼女と同級生だということが妙に誇らしい。彼女は家庭面の担当だとわかった。この日の記事は介護問題。

彼女は森山知聖(ちせ)。いつも数学の時間になるとすっくと立ってこう言うのだった

 

「先生、トイレに行かせてください」

 

初めはどうぞどうぞという感じだったが、三日に一度はそう言う彼女に先生は露骨に嫌な雰囲気を出した。

 

「あのね、トイレに行かさないのは人権問題になるけど、数学だけそうなるみたいじゃないか。おかしいよ」

 

「はい、私もそう思うんですけど、こればかりは」

 

「もういい、行きなさい」

 

その時に男子はくすっと笑うし、女子は困った顔をしていた。

 

「早崎さん、プリントを職員室に忘れてきた。悪いが取りに行ってくれないか」

 

そう言われて廊下側の前の席にいた私は頷くと教室を出た。

すると、彼女はトイレではなく四階の美術室の窓から外をぼーっと眺めていた。

 

「あ、見られた」

 

私が見ていることがわかると、彼女はにこっと笑って口に人差し指をあてた。

もちろん告げ口などする気もない。でも、この自由な雰囲気が羨ましすぎた。私たちは教室で難しい微分積分を解いているのに。

彼女は十分ほどすると一息ついて戻ってくる。まるでおじさんの喫煙タイムみたいなもの。

その彼女が今は家庭面の親の介護問題を連載している。

 

そこには年老いた両親の世話を一人で取り組まざるを得ない様子が見えた。

彼女に兄弟はなく、父親が48、母親が42で授かったのが彼女だった。

結婚はしていない。

両親は健在だが、100歳近い父と母。介護施設には満員で入れないから順番待ちだとか。父親は売れない絵描きだと聞いたことがあった。美術室がお気に入りの逃げ場所だった彼女、父親のことを尊敬していたようだ。父親の代わりに生活費を稼ぐ母親はスナックで働いていた。

もちろん彼女も新聞配達をして自分の小遣いを稼いだようだ。長期の休みは夕刊も。ひと息つけたのが数学の時間だったのだろう。仕方ないよ。今はそう思う。

そんな彼女が抱える親の介護。

50に手が届きそうになった今、介護認定を受けてヘルパーに家事の負担を手助けしてもらっている。朝の慌ただしさの中、おむつの交換や朝食の準備、ヘルパーにデイサービスの送迎を頼む。

子育て期の壮絶な忙しさが彼女は今なのだと知る。しかし、相手は子どもでなく老人。言い聞かせるだとかは無理な話。これはいかに大変なことか。

幸い私の両親も、彼の両親もまだ健在で自分のこともしっかりできるし、いまだに子どもたちは休みになると顔を出して小遣いをもらっている。

一人でどれだけのことをこなしているのか、心配にもなる。

そんな彼女に届くといいなと、新聞のデジタル面に感想のメールを送る。

すると、すぐに彼女から返信が来た。

 

「なんてことなの! 早崎さんからメールが来て嬉しくてびっくりよ。会えますか?」

 

「はい、いつでも。今日はたまたま休みで家にいます」

 

初めて送ったメールに、彼女から返信が来るとは考えていなかった。何しろ30年近く会っていないんだから。しかもあの頃に文通もしたこともなかった。電話すら

喫茶店に入ると、すぐに見つけた。

相変わらず、すっきりとした顔立ちでショートヘアがよく似合っていた。耳元には緑のピアス。

 

 

「こんにちは」

 

「わあ、ほんとに早崎さんね」

 

彼女とこういう会話を学生のころにもしたことはなかった。でも、彼女は好奇心満載の様子でいろいろと話を聞いてくる。ついつい結婚したいきさつなども話してしまった。

 

「ご両親と暮らしているのね。新聞を見たわ」

 

「ええ、もうずっと。大学のころは逃げて県外に行ったけど、就職はこっちへ戻って。結婚もしようかなと思っても、踏ん切りがつかなかったわ。きっと縁がなかったのね」

 

彼女は私の話を楽しそうに聞いてくれた。

 

「こんなに話しやすい人と思わなかったわ」

 

と、つい言ってしまった。

 

「早崎さん、私ね、いつもあなたのこと羨ましかったのよ。話したいことも沢山あったけど、私はバイトで早く帰らないといけなかったし、みんなのように部活もしなかったから」

 

「なぜ、私なんかを羨ましいなんて」

 

「だって、あなたはいつも達観しているように見えたわ。友達ともつるまないし、先生にも好かれていたし。大人なんだなと

 

「えーっ! それは私の言うことよ。あなたの方が好き勝手に行動できて羨ましかったわ」

 

「ふふふ、それは数学のトイレでしょ」

 

「そうよ、先生は怒ってるのに、あなたは無視するし」

 

「だって、あいつは怒れないのよ。母のスナックの常連で」

 

「えっ、そうなの?

 

聞けば驚くようなことがたくさん。

スナックには先生のボトルもあったとか。日ごろの愚痴をスナックで言ってたら、彼女が奥から現れてホントに腰を抜かすほど驚いたって。今思えば笑えるけど。先生は気の毒だったわね、息抜きの場が減って。

彼女は両親が元気なうちは一人で旅行もできたし、好きなように生きてきたけど、ここ数年は二人が急に弱って来たので束縛も増えたという。そう簡単に入れない介護施設のことや、厚生年金もない二人にかかるお金。それでも、彼女の扶養でどうにか暮らしているが、自分の将来は明るくないと笑って話す。

それでも、耳元の揺れるピアスは彼女の苦労をサラサラと聞き流すようだ。

 

「素敵ね、ピアス」

 

「うん、これ、パートナーからもらったの」

 

「恋人?」

 

「ううーん、まあ恋人よりパートナーって感じね」

 

「その人は一緒に暮らさないの?」

 

「あちらにも一人の親がいるのよ。母親がね。二人で暮らして三人を介護っていやでしょ」

 

「あ、ああ、そういうこと」

 

「うん、会いたいときに会って、二人でこっちのおむつがいいなんて楽しい会話してるの」

 

笑っているけど、話は重い。こんな素敵なピアスをくれる人って、きっと優しい人なのだろう。介護しながらお互いが支え合うのは結婚しなくてもできるわね。

 

「クリスマス、どうするの?」

 

不意にそう聞かれて驚いた。この年齢になってクリスマスって。夫と二人で鍋だわね。

 

「あなたは?」

 

「昨日、ツリー飾ったの。父が絵を描きたいって言うから。季節の流れを味わうにはいいかなと。デイサービスには描きたいモデルがいないって」

 

思わず吹き出した。そうね、そうだわね。画家にはそうかもね。

 

「彼は?」

 

「うん、29日からは会社も休めるから。その時にクリスマスよ。彼もその時ならって」

 

「なんか、羨ましいわ。あなたたち」

 

「どこが?」

 

おかしそうに笑う彼女。

 

「だって50に手が届くようになっても、クリスマスを考えるなんて。子どもがいないと、私たち夫婦は考えないわよ」

 

「そう? 私は今を楽しみたいのよ。育児も知らないから、子供の成長とは縁がなかったわ。両親を看ることは楽しいことより苦しいことの方が多いわ。そんなときヘルパーさんを頼めるようになってすごく助かったの。泣いたり意地悪言ったり、嫌な娘だったのよ。でもヘルパーさんが頑張ってるわと褒めてくれる方で。そしたら肩の力が抜けたの」

 

彼女の目を見るとキラキラしてる。私はいつの間にか涙をこぼしていた。大変に決まってる。大人の介護なんだもの。赤ちゃんとは違う。老いていく親に自分の未来を見るような。

 

「なんか泣けるわ。あなたの生き方に感動よ」

 

「そう? また会いましょうね。私、誰かに聞いてほしいといつもどこかで思ってたのね。こんなに何もかも話したことってないわ。あなたはカウンセラーだわ。メール、本当にありがとう」

 

その夜、夫にその話をすると久しぶりにじっくり聞いてくれた。

 

「これからはこういう問題は僕たちにも来るよ。二人でその都度話し合わないとどちらかに無理が行くね。きっと君のほうに。僕が気が付かないときは言ってくれよ。で、そのピアスの代わりに、君は何を欲しいの?

そう言いながら、夫は言った。

 

「そのピアスの代わりに、君は何がほしいの?」

 

「あら、わかる?」

 

「ああ、そこにピアスの話はいらないからな」

 

「ふふふ」

 

 

 私はピアスはできないから、イヤリングをお願いします。

石と誰かの物語15*「揺れるグリーン」

 どうしてこの線香のような漢字をサルスベリと呼ぶのか、さっぱりわからないけど。この花が好き。

 花瓶に入れるとテーブルの周りに小さな花弁が散らばって可愛らしい。親友の由美の部屋に飾ってあってすごく素敵だから貰ってきた。

 

「おばあちゃんが育ててるの。いっぱい咲いてるからどうぞ持って帰って」

 

「わあ、ありがとう」

 

 私の何もない部屋に花瓶はない。仕方なく、ウイスキーの空き瓶に飾る。これはこれで雰囲気あるわ。

 そう思っていたら、花を飾る習慣のない私の部屋は、日が経つにつれ、いつのまにか茶色の汚い点々が。水を換えたり、掃除したりする人でないと、やはり自然の生き物だから枯れていき部屋は汚くなっていくのね。

 由美の部屋では美しかった百日紅の魅力が数日で消えていく。

 

「ふう、暑いわ。元気?」

 

 ノックもせずに部屋に入ってくるのは母。

 

「ちょっと、人のうちに黙って入って来ないでよ」

 

「はいはい。だってどうせ鍵もしないんでしょ。物騒よ」

 

「いいの、誰も来ないから」

 

「そうみたいね。なんか臭いわ。この部屋」

 

「百日紅よ」

 

「見たらわかるわよ。でも、腐った花の水の匂いも気にならなくなるって、あんたって子は」

 

「何の用?」

 

「そうそう、この写真見て」

 

「え? お見合い写真なんて今時あるの?」

 

「あんたじゃないわよ、私」

 

 思わず飛び起きた。

 私でさえお見合いしたこともないのに、58歳の母親が見合い写真を撮るって。どんな写真かと思ったら、白髪の男が写ってる。

 

「えええええええ!? 誰なの、この男」

 

「十五年前に奥さんを亡くされて、今は一人。お子さんはみんな独立して県外で就職。公務員の長男さんと銀行に勤めているお嬢さんがいるの。仕事は定年退職されて今は悠々自適の68歳。優しそうでしょう」

 

 母は私ができて十年で離婚。父は単身赴任先で優しくしてくれた同僚に心惹かれ、さっぱりした母にすぐに別れを切り出した。その時に言われた言葉は君は一人で大丈夫だと。

 決して大丈夫ではなかった母が何とか私を育ててくれた。祖母の百二十パーセントの援助がなければ絶対無理だった。

 

「なんで一人では無理だと泣いて訴えなかったの」

 

 祖母は母の代わりに「言ってくる」と玄関先で母ともめていたことを、大人になって思い出す。

 

「強く見えるってのは、見飽きたってことよ」

 

 自虐的な母の言葉を祖母は悲しそうに聞いていた。

 

「バカな子だね。男に甘えることも覚えなさいって言ったでしょう」

 

「母さんの子だもの。死んでもそんな言葉は出ないわ」

 

 祖父も男の子ができた愛人のもとに去って行ったのだった。もう、親子してなんと男運のないことか。

 

 そんな母が見せた写真。

 改めてじっくり見る。

 

「ハンサムとは言えないわね。見合いなの? もう知ってるんじゃないの、この人のこと」

 

 母は小さくうなずいた。

 

「ええ、毎朝モーニングを食べる喫茶店の常連」

 

「やっぱりね。急に見合いなんてありえないもの。でも、なんで私に相談するの? もう決めてるんじゃないの?」

 

「おばあちゃんも死んで五年だし、話す人がいないのはさびしいのよ」

 

「ふうん、そりゃそうだわ。私もずっと一人だと寂しいもん」

 

「あなたは男と別れたばかりだから。私はずっと一人よ」

 

「ずけずけ言うなあ。結構傷ついているのに」

 

 そう、私はこの前同棲を解消したばかり。大学から一緒だから気楽だったのに、勤め始めて急に家事の分担も何もかも私に求めてきた。お互い勤めているからと理路整然とした会話は消え、君に何がわかるというような言い方しかしなくなった。疲れているときに甘えたいのはわかるが、私もまた同じように疲れていた。何しろ就活も一緒だったから。三年付き合って、同棲を始めたのは一年前。この時期に同棲を始めた私たちは大ばか者だった。

 

「ねえ、どう思う?」

 

「そうね、お母さんがよければいいんじゃない?」

 

「他人事だと思って簡単に」

 

「なんて言ってほしいの? 反対って言う?」

 

「それは困る」

 

「何よ、それ。いい歳して好きみたいね」

 

「うん、嫌いじゃない」

 

「素直じゃないわね」

 

「今更二人暮らしできるかしら」

 

「お母さん、もうちょっと付き合ってから考えたら? 同棲でもしたら?」

 

「そんな、同棲だなんて。人聞き悪いわ」

 

「は? 何それ。いきなり結婚よりはるかにいいわよ。彼のお子さんたちだって望んでるかもよ」

 

「そうかしら」

 

「そうよ、この年齢になって父親が結婚なんて言ったら財産目当てとか考えるんじゃない?」

 

「それもそうね。そう思われてるかもね」

 

「彼の方も話してるの? お子さんたちに」

 

「ええ、お互いに言おうって」

 

 そんな女の悩みを母親から聞くなんて想像もしたことなかった。母の麻のセーターにグリーンの石が揺れている。黒のシンプルなセーターにいい感じ。

 

「お母さん、素敵ね。そのペンダント」

 

「うん。ツァボライトガーネットっていうの」

 

「ふーん、もらったの?」

 

「うん、この前誕生日に」

 

「そうなんだ」

 

 意外と趣味がいい男ね。

 

「ガーネットって赤と思ってたわ」

 

「結構高いの、グリーンは」

 

「ふーん。一緒に選んだの?」

 

 それって、普通に恋人同士よね。なんで決めているのに娘に相談するのよ。

 母は指で石を触りながら幸せそうな雰囲気を醸し出す。これは恋する乙女よね、58歳でも。

 

「それで、今度会ってもらいたいと思って」

 

「いいわよ。見てあげる」

 

「そう。じゃ明日の夜」

 

「え、私だって予定だってあるかもしれないでしょ」

 

「ないでしょ、いいわね」

 

 図星だわ。まあ、こういう機会は滅多にないから楽しみ。68歳か。ちょっと歳がねえ、だって、女性の方が長生きするだろうし、すぐに介護の生活になったらどうするのよ。今は恋してるから忘れてるんでしょうね、そういう年齢だってこと。彼の足腰も鋭く見てあげるわ。

 

 朝から何を着ようか迷ってる。

 おとなしいワンピース、これでは私の見合いだわ。

 ポロシャツだとカジュアルすぎるし、おしゃれなフリルのブラウスに紺のパンツ。なんだか伴奏しそうだけどまあいいか。耳にはチェーンのピアス。小さなダイヤのネックレス。ボーナスが出て初めて買った。買っといてよかったわ。化粧も張り切った。靴をあわてて磨く。

 ちょっと高そうな和食処。

 通された部屋に二人が緊張しながら座っている。

 

「こちらは鈴木さん。娘の真衣です」

 

 母が私を紹介する。

 彼は意外とすっきりとしていて、写真よりかなりいい。ベージュのカジュアルなジャケットにグレンチェックのズボン。母は黒のニットのワンピース。また、あのネックレス。ふーん。

 

「僕は鈴木泰平といいます。息子と娘がいます。市役所を退職してから近所の塾で非常勤講師をしています。中学生を教えてます」

 

「そうですか、私はまだ勤めて半年です。今日はよろしくお願いします」

 

「あ、こちらこそ。どうぞよろしくお願いします」

 

 母は借りてきた猫のように静かだ。

 

「母の話ではご結婚を考えているとか」

 

「こら、真衣、そんなこと」

 

 驚いたように真っ赤になった母。

 

「あ、はい。この年齢でとお思いかもしれませんが、一緒に生きていきたいと思ってます」

 

 そのことばに母はさらに赤くなる。

 これでは私の出る幕はない。

 彼はいい人だ。

 でも、一応お目付として一言。

 

「あの、母のどこが気に入られたんですか」

 

「話し方も笑い方も、そして優しいところも、怒るところも」

 

「まあ、私、怒ったりしました?」

 

「ええ、映画を観るときそんな映画は嫌だと」

 

「あ、あれね。私はアクションものよりミュージカルが観たかっただけよ」

 

 何よ、この二人、娘の前で。なんだかばからしい。

 

 しっかり食べて飲んで、二人の毒気に当てられての帰り道。

 

「お母さん、幸せでしょう」

 

「ええ、こういう思いは初めてかもしれないわ」

 

「よかったね。私は賛成よ。ただ、これは向こうのご家庭もあるしね」

 

「うん、わかってる。今度は向こうのお子さんたちにも会ってからゆっくり考えるわ」

 

「そうだね、今日はお母さんと家に帰ろうかな」

 

「布団も干してるわ。私もそうしてほしかったの」

 

 

 

 

 

 朝、窓を開けたら庭に百日紅があった。

 

「お母さん百日紅ってうちにもあったのね」

 

「ええ、おばあちゃんがもらってきていつの間にかこんなに増えたのよ」

 

「知らなかったな」

 

 相変わらず胸にはあのネックレス。

 

「よほど好きなのね、その石」

 

「ええ、なんだか落ち着いていられるのよ」

 

「ふーん、愛されてる感が満載ね」

 

「ばかね、何言ってるの。さあ、ご飯よ」

 

 お母さん、幸せになってね。

 

 ついでに、私も幸せになりたい。

 

 

 

story by 河 美子「揺れるグリーン」

※掲載写真はイメージです。写真の石はエメラルドとなります。

石と誰かの物語14*「クリスタルに口づけを」

 私たちはもう四年目に入る。

 給料も知ってるし、あなたに貯金がないことは百も承知よ。

 でもね、でも一つ言わせて。

 見たのよ、昨日デパートでアクセサリー売り場で女性と買い物してた。

 初めはお姉さんか、妹か、あるいは百歩譲って従妹かと。

 でも、翌日も見たの。会社近くで二人で食事していたわ。毎日家族と食事したり買い物したりしないでしょ。私は取引先へ新しい見積書を届けに課長と一緒。食事に入ったレストランで奥に座ってる二人。あなたと向かい合ってる彼女は前日にピアスを選んでいたあの人。

 せっかく課長がおごってくれたトンカツも思わず胸につかえそうになったわ。

 

「うまいな」

 

「・・・はい」

 

 盛り上がらないのは悪いと思ったけど、奥の二人が気になって。課長は大口の新規契約できたからすこぶる機嫌がいい。普段のワンコインランチと違って満足そう。二人が楽しそうに会話しているのを見ると、だんだんカッカしてきた。

 なんなのよ、あの雰囲気。私と食事してもお互いが週刊誌や漫画を開いて黙々と食べるのに。初めのうちは楽しくおしゃべりしていたのに、もうはるか昔のような気がしてきたわ。

 そうよね、彼女は高いヒールを履き、その体にフィットしているブラウスは高そうだわ。そのチェックはあのブランドね。バッグはロゴ入り。はい、知ってるけど私はボーナスはたいてそれを買うことはないわ。

 

「どうした、具合でも悪いのか」

 

「いえ、大丈夫です。花粉症です」

 

「そうか、僕はもう一つ寄るところがあるから。君は先に会社に帰ってくれていいよ」

 

「はい、わかりました。今日はありがとうございました」

 

「おう、おごるなんて滅多にないからな。じゃお先に」

 

 さて、このままここにいても仕方がないわ。外に出るとウインドーにうつる自分の姿。リクルートみたいに紺のブレザーにグレーのタイト。薄いピンクのカッターシャツ。面白くもなんともない無難な格好。ネイルもしないツンツンに切った爪。指輪もない。耳には母からもらった18金の小さなイヤリング。

 

「あーあ、なんなのよ、これがアラサーのイケる女?」

 

 いいの、これでも仕事はできるんだから。

 さて、会社に着くとメールの着信音。

 

「今日は会える?」

 

と、送信した朝のメールに返信。

 

「無理、明日から日曜日まで出張で大阪だから。帰ったら連絡する」

 

「了解」

 

 ふーん、大阪に行くのか。

 『昼休みは楽しかったでしょ』

と送りたい気持ちを抑えてケータイを握る。いろいろ考えても会社に戻ると仕事が山積み。仕事に没頭していく。

 あっという間に六時を過ぎる。

 

「帰らないの?」

 

 みんなが帰るけど、今日の予定がない私。仕事を片づける。

 

「おいおい、残業はもうよせよ」

 

そうね、みんなに言われるまでもない。机のファイルを片づけてるとふいに涙がこぼれてきた。それほど気にしていると思いたくない。あいつのことなんかそんなに考えてない。くそっ、もう腹立つ。飲んで帰る。親父だわね。この感覚。

 会社を出ると、いつもの喫茶が赤ちょうちん? そうか、夜だけ居酒屋に貸してるのか。

 

「いらっしゃいませ」

 

 予想に反して素敵な女性。年齢は私くらい? アラサーか。

 

「お腹すいてるの」

 

「では、ピーマンの肉詰めなんかはいかがですか」

 

「へえ、おいしそう」

 

「ええ、和風にしているのでさっぱりですよ」

 

 付きだしのサラダもミョウガが入っていい感じ。

 

「お飲み物は?」

 

「生ビール。ジョッキでちょうだい」

 

「はい、かしこまりました」

 

 よく冷えたビールが何とも心地よい。バットに並んだピーマンを三つ取出しフライパンに。いい匂いがしてくる。目の前の鉢にはこんにゃくとごぼうのきんぴら炒め、ブリのアラ煮。筍の土佐煮。どれも好みだわ。

 

「このきんぴらもください」

 

「はい」

 

 ピーマンに大根おろしと大葉をトッピングして酢醤油の小皿が出される。

 

「わあ、あっさりして美味しい」

 

「そうですか、嬉しいです」

 

「このお店はいつからですか」

 

「もう二週間になります。幸い、夕方前の腹ごしらえに寄ってくださる方が結構いらっしゃって助かってます。」

 

「そうなの。知らなかった」

 

「ええ、どうぞごひいきに」

 

「うん、今度から寄るわね。でも、前からこういう仕事されてたの?」

 

「いいえ、ごく普通の会社員でした。でも、仕事もいいけど机上だけではやる気がどんどん失われてしまって。ちょっと顔が見える仕事がしたいなと。それでも資金が貯まる前に賃料はあがるし、とても手が出せないので、夜だけマスターに借りてるんです」

 

「そうなの。わかるわあ」

 

「あら、そうですか」

 

「そうよ、私だって特技があればなあ」

 

「そんな、特技というほどのことではないんですけど、母が小料理屋をしていたので、見よう見まねで」

 

「あら、お母さんも店を? どこで?」

 

「もう亡くなりましたが神楽坂で」

 

「あなたのお母さんならまだお若いでしょう」

 

「ええ、五十七でした。もう六年になります。父はどこかで生きてると思うんですけど。随分前に離婚したから」

 

 彼女の料理はどれもおいしくて、ビールが進む。話も押しつけがましくなく感じがいい。

 

「これは今朝作ってみたんですけど、いかがですか。サービスです」

 

「この魚はなあに?」

 

「ニロギというんですけど、酢漬けが美味しいんです」

 

「あら、ほんと。今日はくさくさしてたけど美味しいものを食べると忘れるわ」

 

「そうですよ、胃袋が満たされると、人は幸せになるって母が言ってました」

 

「そうね」

 

 そう言いながら涙がポトリ。

 

「明日はここは休み?」

 

「この一カ月は休みなしです。ちょっとマーケットリサーチといいますか、この町ではどの日がどういう動きをするのか見極めようと思いまして。それから定休日を決めます」

 

「そう、明日も来ちゃうかも」

 

「ぜひどうぞ。お待ちしてます」

 

 入れ替わりに残業帰りなのか、男性が三人入って来た。

 

「みっちゃん、こんばんは」

 

 みっちゃんって言うのか、知らなかった。

 やっぱり仕事だけではだめだな。こうやって会話をするとどこかで気持ちが落ち着くもの。

 

 ケータイが鳴る。

 

「おーい、大阪もいいぞ」

 

「あら、どなたかと思ったら。お元気でした?」

 

「なんだ、その嫌味な言い方は」

 

「いいえ、いつも通りですわ」

 

「いいものを買ったんだ」

 

「そうですか、それはようございました」

 

「ちっ、何怒ってるんだよ。仕方ないだろ、出張なんだから」

 

「そうですとも、お仕事たっぷり人間ですものね。何をお求めになりましたの」

 

 あの二人の姿が目に浮かんでくる。ビールで怒りのスピードも上がる。

 

「ちょっとなんだよ、せっかく電話してるのに」

 

「私も仕事してまして、今会社に一人ですの」

 

「残業してるのか。帰りは気をつけろよ」

 

「ええ、どうせ、誰にも襲われる危険もないアラサーですから」

 

「はあ? 誰もそんなこと思ってないぞ」

 

「あ、社長が。ではごめんください」

 

 切った。

 くーっ、嫌な女の見本だわよ。

 

 ピンポーン。

 こんな朝早く誰よ。

 のぞき穴から見る。目と目が合う。

 

「どうしたの、大阪ではないの?」

 

「帰ってきたよ。また、午後の便で行くよ。全く。なんだよ。一体」

 

 そう言いながら、どんどんと部屋に入ってくる。

 

「ここに座って」

 

「はい」

 

「何があったのさ」

 

「何にも」

 

「嘘つけ。言ってみろよ」

 

「見たのよ、二日続けて見たの。それだけよ」

 

 彼女と仲良くデートしたり、ランチしたり。腹を立ててないわと言いながら、ぐちぐちと言い続けた私。

 彼は顔面がくしゃっとなるくらい笑い出した。破顔一笑とはこういうことか。

 

「あの人は姉の友だち。クリスタルクオーツを使ったデザインしてる人。いわゆるデザイナー。プレゼントに何がいいか聞いたらデパートで展示してるって言うから。見に行ったのさ。指輪もあるって」

 

 話がつかめない。きょとんとしていると、彼は続けた。

 

「とてもダイヤは買えないけど、ハーキマーならと思って」

 

「ハーキマーってなあに」

 

「あのね、ドリームクリスタルともいうのさ。鉱物学的には水晶だけど、エネルギーを持ってて、バランスを整えるんだって。受け売りだけど」

 

「これさ」

 

 小さな箱に可愛いリボン。

 

「あけてみて」

 

「わあ、きれい」

 

 大きなハーキマーダイヤの周りに小さなルビーが付いている。まるで花飾り。

 

「どうですか?」

 

「素敵、本当に素敵」

 

「旅行資金は貯めたんだけど豪華な指輪までは貯まらなかった」

 

 左の薬指にはめてくれた。

 ハーキマーダイヤ。

 うわーん、そのあと飛びついたおかげで、彼は机に頭を強打し後頭部にたんこぶを付けて大阪へ行った。

 

 私たち、あの居酒屋で披露宴します。

 もちろんみっちゃんのウエディングケーキが出ます。

 

 

 

                                           

story by 河 美子

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